平成27年9月21日(月)
- 2015/09/21
- 23:00
平成27年台風18号水害・現地調査
<その1>
「平成27年9月関東・東北豪雨」の発災から11日が経過した今日(9月21日)、被災地を訪れた。
ニュースで見るのと、実際に現場を訪れるのは、印象が全く異なる。
私が見たこと、感じたことをレポートしたい。
まず最初は、鬼怒川の決壊現場の下流。
ボートが木の上に、引っかかっている。

<その2>
鬼怒川の決壊現場(茨城県常総市三坂町)。
道路が寸断されている。
「水が襲ってきたら、高いところに逃げろ」というのは水害対策の常識。
ところがこの辺りは、見渡す限りの平野で、高い場所はない。
おのずと自宅に留まることになる。
しかし自宅から避難を決断したことで、命が守られた。
生死を分けた決定的瞬間だったことがわかる。

<その3>
写真上部を見てほしい。
堤防決壊から11日後、堤防はすでに修復されている。
そのスピード感はすごいと思った。
写真中央にいらっしゃるおふたりは、家を流された串田さん親子。
行政からの避難指示はなかったが、自らの判断で避難。
それが串田一家の命を救った。
「思い出の品が、何か残っているかと思って」と、流された自宅があったところを見て廻っている。
現在は親戚の家で避難生活を送っているとのこと。
熱心にお話して下さったので丁寧に御礼を申し上げたところ、私の名刺が欲しいとおっしゃる。
もちろん喜んでお渡しする。

<その4>
常総市役所自体が、1階部分が冠水。
私が伺った時は2階以上の階が、災害復旧本部と避難所を兼ねていた。

<その5>
常総市議会の自民党控室は、日本赤十字社の医療救護班の活動拠点に。

<その6>
常総市役所にほど近い民家。
指をさしているところまで水が来た。
24時間以上、水は曳かなかったという。

<その7>
冠水した畳など、使えなくなったものを、家の外に出すのが一苦労。
ボランティアの皆さんがその手助けをしている姿は、実に頼りになると感じた。
周囲には少し臭いにおいが。

<その8>
避難所になっている、常総市・石下総合体育館。
ちょうど昼食の時間で、避難者の皆さんは晴天下の屋外に。
こういう劣悪な環境下での避難生活は、一日も早く解消すべきだ。

<その9>
支援物資の集積場となっている、常総市・水海道総合体育館。
古着を送って下さる方は多いが、現実には人のお古は誰も着ない。

<その10>
今回初めて知ったのが「洗濯ボランティア」。
クリーニング屋さんでない一般の方々が、避難所のボランティアからの電話を受け、避難者の皆さんの洗濯物の集荷と配達をする。
簡単にできるし、感謝される。
これは素晴らしい。

<その11>
避難所とセットで必要なのが、ペット避難所。
避難所となっている体育館の脇に設けられている。

<その12>
常総市の被災地を回っている際、真っ白なお城が存在感を発揮していた。
「せっかくここまで来たのだから」と、観光気分で立ち寄ったところ、お城の名前は豊田城。
なんと常総市が平成4年に開設した、高さ48メートルの地域交流センターだとわかった。
市役所の施設なので、避難者を6人受け入れている。
「避難者は、天守閣の最上階にいらっしゃるのですか?」との私の問いに、「いいえ、1階部分にいらっしゃいます」との回答。
発災の際にはこの周辺も、腰の高さまで水が出て、あたかもお堀に囲まれたようだったという。
http://www.city.joso.lg.jp/shigai/kanko/chiiki/1421553530228.html

<その13>
堤防を決壊させないこと。
これは個人の努力ではどうしようも出来ない。
行政だけが出来る仕事だ。
被害が発生した後の善後策に頭を悩ませるのではなく、そもそも被害を起こさない(あるいは最小限にとどめる)ことに努力するのが、行政の最大の役割だ。
私も地方議員のひとりとして、このことを肝に銘じたい。
今回の現地調査は、土井裕之・さいたま市議と一緒に廻った。
また事前情報を、石川昭政代議士から得た。
多くの仲間と一緒に、これからも防災減災まちづくりに努力したい。

<その14>
一緒に廻った土井裕之さんが送ってくれた写真。
家が流されて、何もなくなっている。
私が歩いている道路がきれいなのは、瓦礫を除去した後だから。
手前には、傾いた家屋が散見。
<その1>
「平成27年9月関東・東北豪雨」の発災から11日が経過した今日(9月21日)、被災地を訪れた。
ニュースで見るのと、実際に現場を訪れるのは、印象が全く異なる。
私が見たこと、感じたことをレポートしたい。
まず最初は、鬼怒川の決壊現場の下流。
ボートが木の上に、引っかかっている。

<その2>
鬼怒川の決壊現場(茨城県常総市三坂町)。
道路が寸断されている。
「水が襲ってきたら、高いところに逃げろ」というのは水害対策の常識。
ところがこの辺りは、見渡す限りの平野で、高い場所はない。
おのずと自宅に留まることになる。
しかし自宅から避難を決断したことで、命が守られた。
生死を分けた決定的瞬間だったことがわかる。

<その3>
写真上部を見てほしい。
堤防決壊から11日後、堤防はすでに修復されている。
そのスピード感はすごいと思った。
写真中央にいらっしゃるおふたりは、家を流された串田さん親子。
行政からの避難指示はなかったが、自らの判断で避難。
それが串田一家の命を救った。
「思い出の品が、何か残っているかと思って」と、流された自宅があったところを見て廻っている。
現在は親戚の家で避難生活を送っているとのこと。
熱心にお話して下さったので丁寧に御礼を申し上げたところ、私の名刺が欲しいとおっしゃる。
もちろん喜んでお渡しする。

<その4>
常総市役所自体が、1階部分が冠水。
私が伺った時は2階以上の階が、災害復旧本部と避難所を兼ねていた。

<その5>
常総市議会の自民党控室は、日本赤十字社の医療救護班の活動拠点に。

<その6>
常総市役所にほど近い民家。
指をさしているところまで水が来た。
24時間以上、水は曳かなかったという。

<その7>
冠水した畳など、使えなくなったものを、家の外に出すのが一苦労。
ボランティアの皆さんがその手助けをしている姿は、実に頼りになると感じた。
周囲には少し臭いにおいが。

<その8>
避難所になっている、常総市・石下総合体育館。
ちょうど昼食の時間で、避難者の皆さんは晴天下の屋外に。
こういう劣悪な環境下での避難生活は、一日も早く解消すべきだ。

<その9>
支援物資の集積場となっている、常総市・水海道総合体育館。
古着を送って下さる方は多いが、現実には人のお古は誰も着ない。

<その10>
今回初めて知ったのが「洗濯ボランティア」。
クリーニング屋さんでない一般の方々が、避難所のボランティアからの電話を受け、避難者の皆さんの洗濯物の集荷と配達をする。
簡単にできるし、感謝される。
これは素晴らしい。

<その11>
避難所とセットで必要なのが、ペット避難所。
避難所となっている体育館の脇に設けられている。

<その12>
常総市の被災地を回っている際、真っ白なお城が存在感を発揮していた。
「せっかくここまで来たのだから」と、観光気分で立ち寄ったところ、お城の名前は豊田城。
なんと常総市が平成4年に開設した、高さ48メートルの地域交流センターだとわかった。
市役所の施設なので、避難者を6人受け入れている。
「避難者は、天守閣の最上階にいらっしゃるのですか?」との私の問いに、「いいえ、1階部分にいらっしゃいます」との回答。
発災の際にはこの周辺も、腰の高さまで水が出て、あたかもお堀に囲まれたようだったという。
http://www.city.joso.lg.jp/shigai/kanko/chiiki/1421553530228.html

<その13>
堤防を決壊させないこと。
これは個人の努力ではどうしようも出来ない。
行政だけが出来る仕事だ。
被害が発生した後の善後策に頭を悩ませるのではなく、そもそも被害を起こさない(あるいは最小限にとどめる)ことに努力するのが、行政の最大の役割だ。
私も地方議員のひとりとして、このことを肝に銘じたい。
今回の現地調査は、土井裕之・さいたま市議と一緒に廻った。
また事前情報を、石川昭政代議士から得た。
多くの仲間と一緒に、これからも防災減災まちづくりに努力したい。

<その14>
一緒に廻った土井裕之さんが送ってくれた写真。
家が流されて、何もなくなっている。
私が歩いている道路がきれいなのは、瓦礫を除去した後だから。
手前には、傾いた家屋が散見。
